2010年

8月

29日

トーネットの曲木椅子「NO.14」が出来るまで

トーネット No.14

近代になって椅子が庶民の間に広がってくると、椅子は絶対的な量を必要としました。こうした時代の要請に応え、椅子の大量生産を可能にするまでには、ある若者の挑戦の歴史がありました。

 

ドイツ生まれの家具デザイナー、ミハエル・トーネットは、若干23歳にして、小さいながらも工場を持って、日々、椅子作りに励んでいました。しかし、複雑な工程を必要とする椅子作りは、手間も時間もかかるもので、生産が追いつかない状態でした。とくに、当時のドイツで流行していたビーダーマイヤー様式のデザインは、手間がかかりすぎました。何とか効率的に椅子を作ることができないかと、トーネットは木を曲げるための実験を重ねます。その結果、お湯や蒸気、ニカワなどで適当な熱と水分を与えることにより、硬い木を曲げることができました。トーネットは、特許を取ったこの方法を応用して、ステッキ、コウモリ傘の柄、椅子などを作り、地元の産物品評会に出展します。トーネットの作品は、品評会に訪れていたオーストリアの宰相、メッテル二ヒ公の目にとまり、腕を見込まれたトーネットは、ドイツを離れてウィーンの宮殿で家具の製作や修復に当たりました。

 

3年間の宮殿での役目を終えたトーネットは、ウィーンのカフェ「ダウム」から、店内用の椅子の注文を受けます。トーネットは再び、木を曲げる実験を繰り返し、数えきれないほどの試行錯誤の末に、素材にはブナ材が最も適していることを突き止めました。熱と水蒸気を与えて軟らかくしたブナ材を、鉄製の型にはめ込んで乾燥させることでカーブを固定することができたのです。トーネットがこの加工方法で完成させた曲木椅子は、後に「ダウムの椅子」(NO.8)とも呼ばれています。

 

トーネットの曲木椅子は、背もたれがカーブを描く2本のブナ材のみで構成されています。シンプルなデザインであることは、軽くて、持ち運びがしやすく、店内に置いても視覚的に邪魔にならず、かつインテリアに柔らかい雰囲気を与えることにつながります。また加工が簡単にできることは、一度に大量の椅子を作ることを可能にし、結果として価格を安く抑えることができました。特に「カフェ・チェア」(No.14)と呼ばれる椅子は、シンプルでモダンなデザインが人気を呼び、ウィーンのカフェの椅子として世界的に有名になり、一般家庭のダイニングルームなどでも用いられるようになったのです。

 

 

2010年

8月

17日

ヘニングセンの「アーティーチョーク」について

アーティーチョーク

「アーティーチョーク」と名付けられた照明器具もまた、ポール・ヘニングセンの代表的な作品です。アーティーチョークは、72枚のセードで電球を覆っています。セードはそれぞれ微妙にカーブしており、セードの内側の面にはつや消しの塗装が施されています。100種以上のパーツで構成されているアーティーチョークは、濃淡の異なる影を演出しながら、やわらかな光の世界を作り出してくれます。

 

ポール・ヘニングセンは、生涯にわたって人と物、空間を美しく照らす良質な光の探求を続けました。彼が築いた照明デザインの基礎とシーリングライトは、現代においても色あせること無く輝き続けています。

 

 

2010年

7月

24日

ルイスポールセン「PH5」の秘密

名作照明器具としてあまりに知られている「PH5」(写真左)です。電球のまぶしさを徹底的に除き、かつ効率よい理想の配光を作り出しています。このテーマに挑んだ建築家ポール・ヘニングセンが、長年の研究の成果として1958年に発表し、今も世界中で愛用されています。そのルーツとなった隠れた名作が、1920年代に発表された「PH3/2」(写真右)です。3枚の乳白ガラスのシェードは、その曲線を「対数螺旋」という数字から導いています。このシェードに反射した光は、入射した角度とほぼ同角度で反射されます。そのため、電球の中心に近いランプの真下が最も明るく、周辺に向かってなめらかな光がでる理想的な配光を実現しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

2010年

7月

21日

ポール・ケアホルムのデザインについて。

PK-22

初期の作品のPK-22だけでなく、その後に続くケアホルムのデザインのすべてに、造形に対する強い主張を感じることができます。それは、余分なものを出来る限りそぎ落としたぎりぎりの単純さにも関わらず、貧することのないミニマリズムの本質です。それは、容易な妥協を許さず、時には孤高を恐れない潔さ、完全主義を貫き通す強固な意思がうかがえます。

 

生活の中で使う道具でありつつ、哲学的なメッセージを見るものに伝えるケアホルムのデザインは、それが置かれるべき空間の造形と質を要求するだけの強さと主張を持っています。

 

これらの原理、普遍性が、多くの人々の理解と共感を呼び、時代を超えた尊敬を集め続けているのではないでしょうか。

 

上の写真はハンモックチェアとも呼ばれる「PK-24」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2010年

7月

19日

ポール・ケアホルムの原点について

ポール・ケアホルムは、1929年ユトランド半島のオスターブゥローに2人の姉に続く末っ子として生まれ、幼少の頃に地方都市ヤーイングに移住しました。

 

子どもの頃に左足を痛めて発育が止まったため、成人後も歩行に不自由さが伴いましたが、このことはケアホルムの性格と思想形成に、大きな影響を与えました。ハンディキャップを克服し、跳ね返す強固な意志、絶え間ない努力の足跡を、ケアホルムの経歴の中に見ることができます。

 

画家を目指していた若き日のケアホルムが、同じ町の家具職人グロンベックの下に弟子入りしたのは、祖父の強い支持があったからです。祖父は、脚に故障のあるケアホルムの将来を考えて、「手に職を持たせる」ことが最良の道を考えたのです。ケアホルムは昼間は家具職人の修行、夜は絵を描くことによって、夢を膨らませていたと言います。

 

その後、家具修行を終えたケアホルムは、22歳でハンス・ウェグナーの事務所で働きます。ウェグナーの出身地はユトランド半島の南の町トナーですが、首都コペンハーゲンから見れば北の町ヤーイングとは同郷のようなものでした。ケアホルムにとってはまさに幸運な出会いで、ここから運命の扉が開かれてきました。

 

14歳で家具職人の道に入り、のちにデザイナーを志したウェグナーと同じような道を歩み始めたのです。

 

のちにケアホルムは、ウェグナーの事務所に務めながら夜間にコペンハーゲン美術工芸学校のインダストリアル・デザインコースに通うようになりました。当時のこの学校の教員名簿には、まさに北欧デザインの黄金時代を支えてきた、ウェグナーや、デンマーク最高と言われる建築家、ヨーン・ウツソンを始め、アイナー・ラーセン、ベンダー・マドセンなどそうそうたる顔ぶれが並んでいました。

 

1952年、同校を卒業したケアホルムは、フリッツ・ハンセン社に勤務しながら、夜間は母校の家具コースで教えることとなります。デザイン活動と教育を平行して行うことは終生続きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

2010年

7月

17日

ポール・ケアホルム「PK-22」

 PK-22は、曲げ加工により前後を一体としたスチール製の2本の脚部、大きく円弧を描くスチール製の2本の貫(水平材)、左右に金属フレームを入れた牛革製クッションの5つの部材からなっています。

 第二次大戦後の近代産業の形態である、専門工場によるパーツ生産とアッセンブルという考え方に沿って、当時導入されたばかりの、六角の穴を穿った黒色のシリンダー状ヘッドのボルトで組み立てます。

 人が座ったときの荷重によってわずかに前後に開くときの動きで床を傷付けないように、脚の先端は床面に平行に曲げられ、さらにその先はわずかに上向きになっており、それが浮き立つような軽快感を生み出しています。貫は、座った時の荷重によって座面が中央に引っ張られる力を支えつつ、落ち込んだ座に接しないように配慮されています。

 当時の北欧では一般的でなかった加工であるスプリング鋼のクロームメッキつや消し仕上や、エッジ部分の面取りには、何度も試作を重ね、納得のいくものを見出して完成された一脚です。背と座の張りには、牛革、藤、キャンパスがありますが、いずれも入手可能な限り良質なものを選んでおり、加工についても、荷重によるシートと心材とのズレを防ぐため、牛革やキャンパスの縫い加工のステッチひとつにも厳格な水準を設けていたといいます。藤張りについても、平張り部分はもちろん、端部のかがり編みの幅寸法まで、繊細な加工が求められていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

2010年

7月

15日

ハンス J・ウェグナーのデザインについて

 ハンス J・ウェグナーは新しい依頼に対して、自分が先にイメージを持ってデザインをすることはほとんどなかったようです。むしろ、その依頼を受けた工場の性格や技術、依頼の内容といった条件を十分に理解し、それに適したデザインの中に自分の良さをどのようにして保っていくか、という方法をとっていたといいます。

たとえば、1950年につくられたウィッシュボーンチェア(Yチェア)は、カール・ハンセン社でつくられましたが、手作りの職人の心を持ちながら工業製品ができるデザインにしています。

 このYチェアは、製造され始めた頃から今日まで、日本に輸入し続けられています。そのロングセラーの背景には、カール・ハンセン社の製品としての品質のよさ、そして工業製品できるデザインで価格も決して高くないという理由があると思われます。ウェグナーの椅子は高級品で、手作りというイメージがありますが、むしろ手作りのフィーリングを残した工業製品と言えるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

2010年

7月

14日

北欧のマイスター制度

 中世から、ヨーロッパでは技術を持つ製造業の世界に「マイスター制度」というものが今日まで続いています。これは陶器、織物、木工、金属をはじめ、技術を必要とするあらゆる分野でその技術の伝習と質を守っていくための制度で、その背景には職能上のギルドが存在していました。

 最近の日本の新聞紙上に、ネスレ会長が若い頃、ドイツのミルク会社の営業分野で徒弟になっていたことがあったと書いていました。営業という製造技術と関係のない分野にも、徒弟、マイスター制度という、一種の職業訓練制度があることは興味深い話です。

 北欧の木工マイスター制度では、10代でマイスターのもとに弟子入りした徒弟は、道具の扱い方や初歩の加工から習いはじめます。2年ほどで簡単なものがつくれるようになると、同業の地域組合がつくっている週に何度かの夜学で、図面を描くこと、木工房を経営していくための簡単な簿記などを学ぶことになります。

 その後、毎年1回開かれる組合主催のマイスター試験で、自分がデザインした家具を出品し、技術試験を受けます。併せて図面の読み描きや経営についての筆記試験に合格しなければなりませんでした。この試験を通ってマイスターの称号と資格を得た後も、一般的に数年間は自分を育ててくれたマイスターのもとで働き、さまざまな社会勉強もした上で独立します。さらに5年ほどしてようやく、今度は自分の手元に徒弟を置いて教える資格を持つことを組合も世間も認めるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

2010年

7月

14日

ハンス J・ウェグナー「ザ・チェア」

ザ・チェア

 1950年のことです。アメリカのインテリア専門誌「インテリアーズ」の表紙を、一脚の椅子が大きく飾りました。ハンス J・ウェグナーがデザインした「ザ・チェア」です。当時の名前はまだ「ラウンド・チェア」という名前でした。

 ヨハネス・ハンセン社が製造したその椅子は、その名の通りアームから背へ、ちょうど丸く円弧を描くように、流れるようなスムーズな曲線がつくられていました。見るからに手触りの良さそうな温かみのある座面は藤で編まれ、軽快な中にも一種の気品さを感じさせるデザインでした。

 第二次世界大戦以前の木製家具の高級品にはマホガニーが多く使われていましたが、この材は入手が困難になっていて、北欧においてもこれに代わる素材として東南アジア産のチーク材を開発することに成功していました。

 第二次世界大戦後というのは、まだ戦争からの余韻が冷めず、人々は戦争に荒れた心の安らぎとして、飛行機やジュラルミンの世界の対極にある手作りの感覚、手触りの良さなどを、木製品の中に求めるようになりました。この流れの中、木工業が盛んだった北欧の製品が戦後いち早く復興して、アメリカのマーケットにすごい勢いで流れていったことは創造できるでしょう。

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

2010年

7月

13日

北欧の生活協同組合 F.D.B.とは?

 プロシャなどとの戦いの後、デンマークでは国民が協力し合って敗戦のキズを癒し、生活を豊かにしようという機運が高まっていました。国民学校がつくられ、農地改良と酪農による立国が計られていきました。そんな中から働く人々それぞれがわずかな資金を出し合って、生活資材、物質を共同購入するという生活協同組合が自然に生まれ始めました。

 

 19世紀の半ば、それらをさらにまとめた「消費者組合の連合組織」がつくられ、デンマーク語のイニシャルをとってF.D.B.と呼ばれるようになりました。F.D.B.は各地にある雑貨屋をメンバーとして共同仕入れをし、安い食料品や雑貨を売る店をチェーン展開していきました。ブルーセン(消費者)と名付けられたこの店は、全国に、町の数だけできていき、「美しく、安く、丈夫な家具」も販売するようになりました。

 

 現在のF.D.B.には巨大な組織としての力はなく、ドイツ、スウェーデンの量産店との競争におされています。家具専門店の多くは閉鎖されてしまい、タームの家具工場も1、2度所有者が移り、現在はKVIST(クヴィスト)社の所有になっています。ここでは、J39やハンス J・ウェグナーのロッキングチェアをはじめとする歴史あるかつての名作と共に、トム・ステップのジャイブなど、新しい家具も生産、販売されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

2010年

7月

12日

小椅子「J39」の時代背景。

 1930年代から今日までの北欧家具を振り返ると、大きく二つの系統に分けることができます。1つはイギリス的な高級家具で、マホガニーやローズウッドを使う職人技を必要とする古典的な中に近代性を含んだデザインの椅子。もう1つは、量産の中にも合理的な構造と美しいフォルムを実現した家具で、庶民に使ってもらうためにできるだけ単純化し、価格を抑えたデザインの椅子です。

 

 後者の家具は、素朴さを残しながら、工法などが合理的に考えられていたので、アメリカやドイツのデザインとはひと味違うものとして認知されました。その特徴は、生産性優先ではなく使い手主体に考えられた人間の感覚が伝わるデザインで、J39はこうした流れをつくった代表的な家具のひとつなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

2010年

7月

11日

ボーエ・モーエンセン「J39」

J39 椅子

 北欧の近代デザインは、「生活により美しい日用品を」を目指して今日にいたっています。その実証にひとつが、このJ39の椅子です。1947年の製品化から約60年あまりを経て現在なお生産され、庶民の家具として愛され続けてきました。デザイナーは、当時FDBで家具部門のデザイン責任者をしていたボーエ・モーエンセンです。FDBとは、北欧において一般市民や農民を保護育成するために組織された生活共同卸組合で、生活用品などを安く販売する活動を行っていました。ユトランド半島の西部の町タームにつくられたFDBの工場では、組合員のために健康的で使いやすい、丈夫な家具が製造されていて、J39はそのひとつとして誕生したのです。

 

 丸棒だけを組み合わせたフレームに、わずかに傾斜をつけて後ろ脚に取り付けられた、緩やかなカーブを持つ幅広の曲木板でつくられた背。紙紐を編み込んだ座面。この座は、座った時収まりがいいようにお尻を囲むようにへこんでおり、古くから地中海地方の農家にみられる藁紐編みの椅子と同じ手法でつくられています。はじめはシンプルな構造にそっけなささえ感じてしまいそうな椅子ですが、使ううちに手軽さと、どんなときも身体を支えてくれる安心感に魅力を感じていくのではないでしょうか。何気ない小さな椅子ですが、モーエンセンと彼が師事したコーレ・クリントのデザイン思想が集結している椅子です。

 


           

2010年

7月

09日

北欧のリ・デザインとは?

 北欧の家具デザインの特徴のひとつに、リ・デザインの思想と手法が確立しています。古典とも言えるデザインや生産の中止されたデザインを、デザイナー自身のものであるかないかにかかわらず、現在の技術と使用目的と美的感覚のもとに再デザイン、修正デザインすることは、立派な創造活動だという考え方です。模倣、イミテーションとの境界が微妙だという見方もありますが、その中に、創造性を見出せるときには、優れたデザインと評価されてきました。

 

 なので、リ・デザインはオリジナル・デザインをどう理解するかが重要なのです。ただ形を踏襲するだけではなく、構造上の長所や伝統の知恵などを見抜けたか?そこに今の時代のセンスや技術をどう取り入れたかということです。

 


           

2010年

7月

07日

アアルト・レッグの進化。

Y61番

 第二次世界大戦後、家具の生産技術はどんどん進化していきました。1947年には、アアルト・レッグの進化形として「Yレッグ」が開発されます。これは「挽き曲げ」脚2本を、下部で合わせて、上部ではそれぞれを90度開く形にしたものです。スツールの「Y61番」(上写真)やテーブルの「Y805番」などで使われています。

 さらに1959年、ストックホルムで開催された「アアルトの家具デザイン展」ではさらに進化した「Xレッグ」を使った家具を発表し、大きな反響を呼びました。Xレッグとは「挽き曲げ」脚を、上部が90度の扇状に開くように5本合わせて、天板を座面の側面に差し込むようにしてジョイントしている脚です。扇状の曲線がやわらかい雰囲気を生んで、成形合板家具には見出せなかった新しい美しさを演出した画期的なデザインとなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

2010年

7月

04日

アアルト・レッグの誕生。

アアルト・レッグ

 アアルトの家具デザイナーとしての地位を不動のものとしたアアルト・レッグ。それは一体どういったものなのかをご紹介したいと思います。アアルト・レッグとは「ベントニー」、日本では「挽き曲げ」という技術を使った椅子の脚のことを言います。無垢の木材の上端(曲げたい部分)から木目にそって鋸で鋸目を等間隔に入れ、接着剤をつけた薄い板を無垢材の木目と直行する方向に差し込んで、必要な角度(ここでは90度)に曲げて治具で固定し、乾燥させる。といった技術です。

 

 この技術は北欧ではもちろん、ヨーロッパ各国において、アアルトの名前でパテントを取得しました。しかし、ドイツでは古くからある公知の技術と判断されて、パテントをとることが出来なかったそうです。

 これによって、背のないスツールNo.60や背の付いた小椅子No.65をはじめ、さまざまなバリエーションが生まれ、螺旋状にスタッキングもできるとアアルトも喜んだそうです。しかし、技術者のコルホーネンは、曲げた脚が前後に変形してしまうことによって、スタッキングをした際に椅子が取り出せなくなるというトラブルに悩まされました。それにより、椅子が本当に完成したのは、パテントを申請して1年後の1933年になりました。

 

 

 

 

           

2010年

7月

01日

アルヴァ・アアルト「No.65」

No.65

 アルヴァ・アアルトが何年もの間、試行錯誤を重ね完成させた椅子がこの「No.65」です。完成したときに生来楽天家のアアルトは、「どうだね、1000脚ぐらいは売れるだろうか?」ということを、オットー・コルホーネンに尋ねていたそうです。コルホーネンはこの椅子の脚の構造に自信を持っていたので、売れると信じていたそうです。

 

 発表は1933年です。それ以来、このNo.65の椅子と、その他の背のないスツールタイプなどは、70年間で100脚以上売れていて、今なお生産が続けられています。もはや、アアルトのロングセラー商品というよりも、世界の小椅子のスタンダード・デザインになっています。この超ロングセラーになった成功の理由には、どのような空間にもマッチするシンプルデザインの力だけでなく、技術開発の力もあることを見逃すことはできません。

 

 1927年のコンペでアアルトが1等に入選したヴィープリの図書館では、No.65の椅子とスツールタイプのデザインの椅子を配置し、人々は建築デザインの新鮮さに注目すると同時に、椅子の美しさと空間との調和を高く評価しました。この印象が強かったため、その後、No.65は「ヴィープリ・チェア」とも呼ばれるようになりました。


 

 

         

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